- 日本国
- 日本国
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((国旗)) ((国章(慣例上))) - 国の標語:特になし
- (国歌):(君が代)
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(公用語) (日本語)((事実上)) (首都) (東京都)(事実上) 最大の都市 (東京都区部) - 政府
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(天皇) (徳仁) 内閣総理大臣 岸田文雄 (国会衆議院議長) (額賀福志郎) (国会参議院議長) (尾辻秀久) (最高裁判所長官) (戸倉三郎) - (面積)
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総計 (377,973.89)km2((62位)) 水面積率 0.8% - (人口)
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総計(2023年) (1億2434万8000)[3]人((11位)) (人口密度) 333.7人/km2 - (GDP)(自国通貨表示)
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合計(2023年) 名目626兆0780億(円) - GDP((MER))
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合計(2023年) 4兆2308億ドル((4位)) 1人あたり 33,950ドル - GDP((PPP))
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合計(2023年) 6兆4952億ドル((4位)) 1人あたり 52,120ドル
建国 諸説あり
(日本神話)による初代・(神武天皇)即位の日((辛酉)年1月1日)。(グレゴリオ暦)換算での(紀元前660年)(2月11日)((紀元節))は明治時代に推定された。(通貨) (円)((JPY)) (時間帯) (UTC)+9 ((DST):なし) (ISO 3166-1) JP / JPN (ccTLD) (.jp) (国際電話番号) 81 -
- ^ 百科事典マイペディア. “日本”. コトバンク. 2022年11月25日閲覧。
- ^ (PDF). 令和4年全国都道府県市区町村別面積調(1月1日時点). 国土交通省 国土地理院. (2022年3月23日). p. 5. オリジナルの2022年3月23日時点におけるアーカイブ。 2022年3月23日閲覧。
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日本国(にほんこく、にっぽんこく、(英): Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、(東アジア)に位置する(民主制国家)。(首都)は(東京都)。
全長3500キロメートル以上にわたる(国土)は、主に(日本列島)および(南西諸島)・(伊豆諸島)・(小笠原諸島)などの(弧状列島)により構成される。大部分が(温帯)に属するが、北部や島嶼部では(亜寒帯)や(熱帯)の地域がある。地形は起伏に富み、(火山地)・(丘陵)を含む(山地)の面積は国土の約75%を占め、人口は沿岸の(平野)部に集中している。国内には(行政区分)として47の(都道府県)があり、(日本人)((大和民族)・(琉球民族)・(アイヌ民族)・諸民族)と(外国人)と数百人程度の(無国籍者)が(居住)し、(日本語)を通用する。(漢字文化圏)に含まれる(国)の1つでもある。
概要
象徴
日本の象徴として国木は(桜)、国鳥は(キジ)、国山は(富士山)、その他がある。 なお、(天皇)は(日本国憲法)で日本の象徴と記載されている。
自然環境
自然地理的には、(ユーラシア大陸)の東に位置しており、(環太平洋火山帯)を構成する。(島嶼国)であり、(領土)が(海)に囲まれているため地続きの(国境)は存在しない。(領土)を取り巻く海は他国から日本への(侵略)を非常に難しくしている。(日本列島)は(本州)、(北海道)、(九州)、(四国)、(沖縄島)(以上本土)も含めて1万4125の(島)を有する。(気候区分)は、北は(亜寒帯)から南は(熱帯)まで様々な(気候区分)に属している。気象条件や地質構造上、様々な(自然災害)が発生しやすく、(台風)や(地震)などの(災害)被害は世界有数規模である。
人口面
(日本国民)は単に(日本人)として一括りに扱われることが多いが、実際は複数の民族で構成されている。(日本語)を(母語)とする(大和民族)が(国民)の大部分を占め、他に(少数民族)として(アイヌ民族)や(琉球民族)の存在が知られている。日本に(帰化)した元(外国人)も(日本国民)として(居住)する。
(日本国民)以外では(在留外国人)や(無国籍者)が(居住)する。
(人口動態)を考慮すると、(21世紀)を通して日本の(国民)(生活)がより厳しくなることは確実である。(人口)は江戸末期まで概ね3000万人台で安定していたが、明治以降は人口急増期に入り、(1967年)((昭和)42年)に初めて1億人を突破した。その後(出生率)の低下に伴い(2008年)にピークを迎え、人口減少期が始まった。現在は(少子化)が進んでおり、世界トップクラスの(平均寿命)の長さや、(移入民)人口の少なさも相まって、超(高齢化)社会に移行している。その結果として(増税)や(年金)額の減少が起こっている。(2025年)には(1947年) - (1949年)生まれの(団塊の世代)が75歳以上になることによって(高齢者)人口が約3500万人まで増加し、(雇用)・(医療)・(福祉)などさまざまな分野に影響が及ぶとされ、「(2025年問題)」と呼ばれている。また、75歳以上の(高齢者)人口は(2054年)ごろまで増加傾向が継続され、生産年齢人口の減少も併せて進むと見込まれている。(国立社会保障・人口問題研究所)が2023年に示した将来人口推計によると、標準的なシナリオでは、(21世紀)を通して人口減少が継続し、(2056年)に1億人を下回ることが予測されている。このような状況下で進む生産年齢人口の減少により、労働力の不足、国内需要の減少による経済規模の縮小など様々な社会的・経済的課題も深刻化することが予測されており、日本社会の(持続可能性)にも少なからぬ影響を及ぼしている。少なくとも、(少子高齢化)の進展により(2040年)には年金給付が保険料収入を大幅に上回ることが予想されているため(自助)の比重が高まり、(国民)においては若年期からの数十年に渡る継続的な老後資金の積み立て((NISA),(iDeco),(個人年金保険)等)や高齢期(65歳以降)の労働が必要な状況が生じている。数千万円の(老後)資金の積み立てが必要なことや、(円安)に起因する(物価高)や、(増税)のために、(国民)の大多数は(可処分所得)の減少から生活苦に陥り、(家庭)を持つことを諦める(国民)も増えつつある。(2019年)に(メキシコ)に抜かれるまでは日本の(世界人口)に占める割合の順位は10位だったが、2023年現在は12位になっている。前述のことを総合的に勘案すると、日本の将来を楽観視することはできない。
産業面
(21世紀)までに奇跡的な(高度経済成長)と(長期の経済停滞)を経てきている。日本は(1945年)に(敗戦)した(太平洋戦争)からの(復興)を果たし、国内で多数の(企業)が(躍進)した結果、(1964年)の(OECD)加盟をもって(先進国)入りを果たし、(OECD)加盟時に受諾した(資本自由化)等の義務を忠実に履行して(政策)協調も行った。(太平洋ベルト)を基盤として官民が総力を挙げて取り組んだ(経済成長)の最高の到達地点と言える(バブル絶頂期)を迎えた(1989年)、(世界)の(時価総額ランキング)の上位10社の殆どを(日本企業)が独占するほどに日本の(産業)(特に(製造業))が(世界)を席巻した。しかし、その後はに乗り遅れ、(情報技術(IT))分野を中心とする(米国企業)に大きく抜かれた。(21世紀)に入ってからは、中国やアメリカ、(インド)の企業群との競争が激しい状況下であるが、自動車産業や(エレクトロニクス)産業、重化学工業の中心地であり、(科学技術)のリーダーとされる。しかし、(情報技術(IT))では遅れをとっており、古く(ブラックボックス)化した(レガシーシステム)が(産業界)の至るところに残っているため、(2025年)には「」という問題が発生して(デジタルトランスフォーメーション(DX))の実現に歯止めが掛かると言われている。DXの遅れは大きな経済損失を生むため、「2025年の崖」を境にして(日本の経済)は大きく落ち込む可能性がある。更に(2030年)には日本経済を駆動する物流において、の不足により全体の3割以上の(荷物)が(トラック)で配送できなくなる「(物流危機)」が生じるため、日本経済が(致命傷)を受ける可能性がある。
(トヨタ自動車)、(パナソニック)、(東京エレクトロン)、(任天堂)、(日立製作所)、(三菱重工業)、(日本製鉄)、(三菱ケミカル)、(東レ)、(武田薬品工業)、(ENEOS)、(INPEX)、(三菱商事)、(ソニー)、(、)(三井不動産)、(日本電信電話)、(三菱UFJフィナンシャル・グループ)など多数の大企業を輩出し、また、(経済複雑性指標)において日本は(1984年)((昭和)59年)以降、一貫して世界首位を維持している。このような理由から、(列強)の一国とみなされる。(人間開発指数)は高く(先進国)のひとつに数えられており、(経済協力開発機構)、(G7)、(G8)および(G20)の参加国である。(名目GDPは世界第4位)かつ(購買力平価は世界第4位)である。
(経済平和研究所)による(2022年)((令和)4年)の健全なビジネス環境ランキングでは、日本は(オーストラリア)、(スイス)、(カナダ)、(英国)に次いで世界第5位となっている。また、(2020年)(令和2年)の(国際労働組合総連合)(ITUC)の労働権ランキングでは、(世界)で6段階中の2番手のグループに属し、(台湾)や(シンガポール)とともに(アジア)で独歩的な位置を占め、世界的にも(ドイツ)や(イタリア)には及ばないものの、(フランス)や(カナダ)と同格、アメリカ合衆国や(イギリス)よりも高く、上位レベルとみなされる。但し、「(中抜き)」という中間(マージン)を(搾取)する(商慣習)があらゆる産業に蔓延っており、(日本経済)の(効率性)を大きく落とす原因になっている。また、(時代)に合わなくなり(利益)が上がらなくなった(企業)を(政府)が支援することで急増した「(ゾンビ企業)」が(日本経済)の硬直化の原因となっている。
日本は(島国)で他国との文化的差異が大きい上に(内向き志向)が強く、国内市場も比較的大きいため、日本の産業界は国内での売上を基本とする傾向にあり、様々な(産業)で(ガラパゴス化)が起きている。具体的には、他国の(発明)を日本に(輸入)して国内市場に特化した(改良)を行う事が多く、日本市場でしか通用しない(つまりは世界(シェア)を獲得できない)(製品)が多数作られている。(世界)に先駆けて高機能化が進んでいたが、(世界標準)の(技術)で作られた(スマートフォン)に日本国内のシェアまで奪われた(ガラケー)は、(ガラパゴス化)した(製品)の最も典型的な例として(否定的)な意味で(議論)の俎上に上がる事が多い。しかし、後述する文化のように、(ガラパゴス化)が良い意味での固有性をもたらす事もある。
文化面
(文化)面では(漢字文化圏)に含まれ、(日本庭園)、(日本建築)、(和食)、(着物)や(宗教)((神道)・(日本仏教))、(武道)・(武術)(特に(古武道))などの(伝統文化)を保持し、(複数の世界遺産)を保有している。また(漫画)、(特撮)、(アニメ)、(ゲーム)、(アイドル)、(シティ・ポップ)を始めとする(ポップカルチャー)の中心地である。他にも、日本の成人は(OECD)の調査で読解力・数的思考力において(フィンランド)や(スウェーデン)などと並んで世界のトップレベルにあるため総じて理性的であり、お互いに順番を守り時には譲り合いをして(ストライキ)や(暴動)といった過激な行動も滅多に起こさないという(規律)の正しさや、(銃刀法)により(火器)や規定以上の(刃物)の無許可での所持が禁止され、(銃犯罪)はおろか、(女性)が夜道を1人で歩いていても(犯罪被害)に遭うことすら殆ど無いという理想に近い(治安)の高さも実現している。これらの文化は、(欧米圏)の文化と比べ特異な文化として海外から注目されている。(食文化)は最も特筆するべき点で、(性愛)を最も快いとする他国民と異なり(日本人)は「美味しいものを食べる」ことが最も快いと感じており、(食)について一切妥協しない(国民性)によって磨き上げられた(美食)については圧倒的(世界)一の強さを誇っている。まず、2023年時点で(東京)は(2008年)の(ミシュランガイド)初掲載以来16年連続で(世界)1位に輝いており、(レストラン)の価格帯を問わない全般的な品質水準の高さと多数の国の料理が楽しめる多様性で他国の都市を圧倒する世界一の美食都市として世界的に知られている。また、(ミシュランガイド)では2位のパリに続いて(京都)が3位、(大阪)が4位と複数の日本の都市が最上位を独占していることから、日本は(美食)について単に世界一であるだけでなく、他国を寄せ付けないほどの圧倒的な強さを持つことが(客観的)に証明されている。(日本人)にとっては(食事)が美味しいことは当たり前過ぎるため(世界)にアピールしていない(食文化)は非常に多いが、訪日外国人が(SNS)を通して新たな価値の発見として(世界)に広めており、「ガストロノミーツーリズム(食を中心としたツーリズム)」を目的として(来日)する(外国人)も増加している。日本発のゲームも世界的に有名で、日本のゲーム文化の原点である(マリオシリーズ)を筆頭に数々のタイトルが世界的に広く知られている。(家庭用ゲーム機)の(ハードウェア)では、(1990年代)までに(任天堂)・(ソニー)・(セガ)の3社が世界シェアの大部分を獲得し、強固なゲームプラットフォームとなったが、(2001年)((平成)13年)3月には(セガ)が撤退した。但し、他国からも大ヒットするタイトルが発表されているように、往時と比較して他国のゲームソフトメーカーの勢いは増しており、日本では制作が難しい巨額の費用を掛けた外国人好みの大作が多数制作されている他、(ゲームプラットフォーム)についても(マイクロソフト)の(XBOX)や(Valve Corporation)の(Steam)等の他国発のプラットフォームに押されつつある。前述の通り、枚挙に暇がないほど様々な(日本文化)が(海外)から注目されているが、(19世紀)後半にも(ヨーロッパ)で(ジャポニスム)という(流行)が起きた事はあるため、(21世紀)以降に限った話ではない。
(政府)は(クールジャパン)戦略を実行するなど、(観光立国を推進)している。(2021年)(令和3年)には(東京オリンピック)が開催され、2025年(令和7年)には(大阪・関西万博)も予定されるなど、(国際)的イベントの招致にも力を入れる。(2021年)、の2021 Best Countries (ランキング)で第2位となった。2020年、日本は国際送金サービスを扱うremitlyで調査した最も移住したい国ランキングで、カナダに次いで2位を占めた [8]。2023年、(オンライン)言語学習(アプリ) Preply の(運営会社)の調査により(Z世代)の(アメリカ人)が希望する移住先としてアメリカと比較的近い(文化)を持ち(言語)面での苦労も少ない1位の(イギリス),2位の(カナダ)の2カ国に次いで非(英語圏)である日本が3位となったことが分かった。当(調査)で他国への(移住)を望むとした(Z世代)の(アメリカ人)には(異文化)(体験)を(理由)に挙げる者が最も多く、日本が(アジア)で1位となった(要因)として(世界)的に顕著な(日本文化)への憧れが(影響)していると見る向きもある。
略史
日本は古くから(中国大陸)、(朝鮮半島)との関係が深く、(飛鳥時代)・(奈良時代)には(遣隋使)、(遣唐使)といった(交易)を通して(法)制度・(仏教)・(儒教)・(漢文)などを輸入し、国家体制の構築に役立てている。また、(正倉院)に(ペルシア)・(インド)を由来とする(文化財)が複数含まれることを例に取れるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じて(アジア)・(シルクロード)文化も流入している。(律令)体制樹立後の(平安時代)末期より(武家政権)が成立し、幾度も交替する。(江戸時代)に至って交際国を限定する「(鎖国)」を行ったが、外圧を受けて(開国)し、(明治維新)の過程で(王政復古の大号令)で(武家政権)が終焉した。
(版籍奉還)や(廃藩置県)などを経て(中央集権化)を完了した後、(自由民権運動)を受けて(大日本帝国憲法)が制定され、(国会)が設置された。同時に(西洋)の(資本主義)を参考にして(日本初の銀行)や(東京株式取引所)および銀行と取引を行う(会社)が次々と創業された。並行しても進展し、ここに(西洋化)・(近代化)が果たされ、日本は(近代国家)・(立憲君主制国家)へ移行する。
(日清戦争)、(日露戦争)、(第一次世界大戦)に勝利した日本は、開国時に欧米諸国と結んだ(不平等条約)を(撤廃)させ、(領土)を拡張した。(国際連盟)発足にあたっては、日本は(国際連盟規約)への(人種差別)撤廃明記を呼びかけたが((人種的差別撤廃提案))、実現には至らなかった。アメリカ不在の国際連盟において(常任理事国)の地位を確保した日本は、(大正デモクラシー)を受けて政治的・文化的発展が進み、(政党政治)の(慣例)の確立や(普通選挙法)成立など(民主主義)の発展が見られた。しかし、(世界恐慌)とそれに続く(ブロック経済)化の中で日本は(五・一五事件)や(二・二六事件)、政党の汚職事件などに揺れて政党政治が後退、(軍)の影響の強い(挙国一致内閣)が常態化した。(満州事変)に続き(日中戦争)に向かい、(第二次世界大戦)に(枢軸国)として参戦、(連合国軍)と対戦したが(太平洋戦争)に敗れた。
(占領)下では(連合国軍総司令部)(GHQ)の指示を受けて(国民主権)、(基本的人権の尊重)、(平和主義)などを謳う(日本国憲法)が制定され、日本は再び政党政治を基調とした(民主主義国家)となる。(戦後復興)ののち、(冷戦)の中で(自衛隊)と(日米安保条約)を軸とした国防を維持しながら、(1960年代)から(高度経済成長)期に入り、(工業化)が加速し(加工貿易)が推進された結果(経済大国)になったが、(プラザ合意)を経て(バブル経済)に突入し、(1990年代)初頭に(バブル経済が崩壊)すると以後は(経済停滞期)に入った。現在は世界最大の対外(純資産)国となっている。しかし(富の再分配)においては、(所得格差)はしている。(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)を推進するなど、概ね(自由貿易)体制を支持している。
国号
「日本」という(漢字)による(国号)の表記は、日本列島が(中国大陸)から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するという説がある。近代の二つの憲法の表題は、「(日本国憲法)」および「(大日本帝国憲法)」であるが、国号を直接かつ明確に規定した法令は存在しない。ただし、(日本工業規格)では「日本国」、英語表記をJapanと規定。更に、(国際規格)(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、(外務省)から発給される(旅券)の表紙には「日本国」の表記と(十六一重表菊) を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず「日本」「日本国」「本邦」「わが国」などが混在している。
日本語の表現
発音
「にほん」、「にっぽん」二つの呼び方がある。どちらも多く用いられているため、(日本政府)は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている。
7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
(室町時代)の謡曲狂言は、(中国人)に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代に(ポルトガル)人が編纂した『(日葡辞書)』や『日本小文典』などには、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた。このことから(小池清治)は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニホン」「ニッポン」両方使用される中、1934年には(文部省)臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、(日本放送協会)(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした。
その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している。
現在、通商や交流の点で自国外と関連のある(紙幣)、(切手)などには「NIPPON」と描かれている(紙幣発券者も「(にっぽんぎんこう)」である)。
- 「にほん」(NIHON)
- (日本相撲協会)、(日本オリンピック委員会)、(日本経済新聞)、(日本航空)、(東日本旅客鉄道)、(西日本旅客鉄道)、(日本たばこ産業)、(日本アイビーエム)、(日本交通公社)、(日本ガイシ)、(日本製鋼所)、(日本マクドナルド)、(日本大学)
- 「にっぽん」(NIPPON)
- (日本武道館)、(日本財団)、(日本医科大学)、(ニッポン放送)、(全日本空輸)、(近畿日本鉄道)、(日本貨物鉄道)、(日本電信電話)、(日本電気)、(日本郵船)、(日本特殊陶業)、(日本製鉄)、(日本取引所グループ)
また、(日本テレビ放送網)(日本テレビ)、(東日本電信電話)(NTT東日本)・(西日本電信電話)(NTT西日本)のように、社名では「にっぽん」、愛称は「にほん」と使い分けている例や、(東日本高速道路)(NEXCO東日本)・(中日本高速道路)(NEXCO中日本)・(西日本高速道路)(NEXCO西日本)のように英字社名は「Nippon」、日本語での社名では「にほん」を用いる例もある。
日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている。なお、日本国憲法の読みについて、(内閣法制局)は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている。日本国憲法制定の際、読みについての議論で、憲法担当大臣(金森徳次郎)は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかに決められることはなかった。
(日本の政党)名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。
- 「にほん」(NIHON)
- (日本共産党)(1922-)、(日本労農党)(1926-1928)、(日本自由党)(1945-1948)、(日本進歩党)(1945-1947)、(日本協同党)(1945-1946)、(日本農民党)(1947-1949)、(日本民主党)(1954-1955)、(日本新党)(1992-1994)
- 「にっぽん」(NIPPON)
- (日本社会党)(1945-1996)、(日本自由党)(1953-1954)、(新党日本)(2005-2015)、(たちあがれ日本)(2010-2012)、(日本維新の会)(2012-2014)、(日本未来の党)(2012)、(日本を元気にする会)(2015-2018)、(日本のこころを大切にする党)(2015-2018)、日本維新の会(2016-)
日本の(オリンピック)選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の「JAPAN」としているが、1912年の初参加となった(ストックホルムオリンピック)の(選手団)のみ「NIPPON」の表記を使っていた。(2021年)の自国開催の(2020年東京オリンピック)では入場行進時に「にほん」とアナウンスされている。
東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京の(日本橋)は「にほんばし(Nihon-bashi)」、大阪の(日本橋)は「にっぽんばし(Nippon-bashi)」と読む。
(明仁)(上皇)は一貫して「にほん」と読んでいる。
呼称
古くから多様である。
- 和語
- あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。(孝安天皇)の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
- 「秋津島」
- 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
- 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
- あしはらのなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
- 「(葦原の中つ国)」(あしはらのなかつくに、葦原中国)(『古事記』、『日本書紀』神代)
- 「豊葦原(とよあしはら)」
- 「豊葦原瑞穂国」
- 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
- 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
- うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
- 「浦安国」(日本書紀・神武紀)
- おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
- 「大八島」「太八島」
- 「大八洲」(『養老令』)
- 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
- くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
- 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)
- しきしま - 「しきしま」は、(欽明天皇)の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
- 「師木島」(『古事記』)
- 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
- 「敷島」
- たまかきうちのくに
- 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)
- 「玉垣内国」(『神皇正統記』)
- ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの。
- 「日出処」(隋書)
- ひのもと - (雅語)で読むこともある。
- ほつまのくに
- 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)
- みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
- 「(瑞穂)国」
- やまと - (大和国)((奈良県))を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』では「倭」、『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。(魏志倭人伝)などの中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとするが、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。(神日本磐余彥天皇)(かむ やまと いわれびこ)、稚日本根子彦(わか やまと ねこひこ)など。また、(隼人)(はやと)などの呼称からすれば、元は山地の人を「山人」(やまと)といったことも考えられる。
- 「虚空見つ日本の国」(そらみつやまとのくに)
- 漢語
- 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、(扶桑)(蓬萊)伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に(瀛州)(えいしゅう)・(東瀛)(とうえい)と記される。このほかにも「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
- 「皇朝」は、もともと(中原)の天子の王朝をさす(漢語)だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、(国学者)はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。(江戸時代)の(儒学者)などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「(帝国)」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後「大日本帝国」の他「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる。
- 倭漢通用
- 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』に倭漢通用の国称が掲載されている。
- 「倭国」
- 「和面国」
- 「和人国」
- 「野馬台国」、「耶摩堆」
- 「(姫)氏国」、「女王国」
- 「扶桑国」
- 「君子国」
- 「日本国」 - (垂仁天皇)2年、(任那)のツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)は、ある村に祀られていた白い石の変化である童女を得たが、その後に逃げた童女を追って「日本国」に入り、その童女が(難波)(なんば)と(豊国々前郡)(とよくにの みちのくちの くに)の(ひめごその やしろ)の祭神となっているのを見つけたとされている(日本書紀)。
その他の言語
- 英語での公式な表記は、Japan((ジャパン))。形容詞はJapanese((ジャパニーズ))。略記は、(ISO 3166-1)などで使われるJPN、JPが多く用いられる。JAP((ジャップ))は英語圏を中心に侮蔑的な意味があるが、一部の国や(IOCコード)では中立的な立場でJAPが用いられる。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、(UPU)などによるローマ字表記(1965年以降)、(郵便切手)や(日本銀行券)などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
- その他、各言語で日本を意味する(固有名詞)は、アン チャパイン((愛): an tSeapáin)、ヤーパン((独): Japan)、ジャポン((仏): Japon)、ヤパン((蘭): Japan)、ハポン((西): Japón)、ジャッポーネ((伊): Giappone)、ヤポニヤ((波): Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ((露): Япо́ния)、ヤポーニヤ((宇): Япо́нія)、イープン((泰): ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の(中国語)で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、(ジパング)(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を(語源)とすると考えられる。
- (漢字文化圏)においては、リーベン((中): Rìběn;日本)、イルボン((朝): 일본;日本)、ニャッバーン((越): Nhật Bản;日本)など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。
- (9世紀)半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地を(ワクワク)((阿): الواق واق)と呼んでいた。この呼称の由来として、当時の中国における呼称である「(倭国)」がアラブ世界に伝わって訛った結果との説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についても(ジパング)伝説と一致する。
- 欧州発行の古地図上での表記
- 「CIPANGU」1300年ごろ
- 「IAPAM」1560年ごろ
- 「ZIPANGNI」1561年
- 「IAPAN」1567年ごろ
- 「IAPAM」1568年ごろ
- 「JAPAN」発行年不明
- 「IAPONICUM」1585年
- 「IAPONIAE」1595年
- 「IAPONIA」1595年
- 「IAPONIÆ」1595年
- 「IAPONIA」1598年
- 「IAPONIA」1598年
- 「IAPAO」1628年
- 「Iapan」1632年
- 「IAPONIA」1655年
- 「IAPON」発行年不明
- 「Iapan」1657年
- 「IAPONIA」1660年ごろ
- 「NIPHON」1694年ごろ
- 「JAPAM」1628年
- 「YAPAN」1628年
- 「IAPON」17世紀
- 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初
- 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年ごろ
- 「IAPONIA」18世紀初
- 「IAPON」1720-30年
- 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年
- 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年ごろ
- 「JAPANIÆ REGNVM」1739年
国号の由来
概説
日本では、(大和政権)が統一以降に自国を「(ヤマト)」と称していたようであるが、古くから(中国)や(朝鮮)は日本を「(倭)」と呼んできた。(石上神宮)の(七支刀)の銘や、中国の(歴史書)(『(前漢書)』『(三国志)』『(後漢書)』『(宋書)』『(隋書)』など)や、(高句麗)の(広開土王)の(碑文)も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、(外交)時には((5世紀)の「(倭の五王)」のように)国書に「倭国王」と記すようになった。
しかし、中国との国交が約120年に渡って中絶した後、(7世紀)初期に再開された時には、初回は「日出ずる処の(天子)、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」(『(隋書)』)、これに(隋)が「(皇帝)、倭皇に問う」(『(日本書紀)』)と応じ、第2回は「東の(天皇)が西の皇帝に白す」(『日本書紀』)とする国書を日本側の(遣隋使)が渡した記述があり、初回の(遣唐使)を送ってきた(唐)使と礼を争った時も『日本書紀』では「天子の命のたまへる使、天皇の朝に到れりと聞きて迎えしむ」と日本側が発言している。いずれも「天子」「天皇」は記すが国名は記していない。当時編纂されたとされ、現存しない歴史書『(天皇記)』『(国記)』も君主号のみがあり国号は無い。中国側では『(旧唐書)』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、倭国伝と日本伝を別に立て「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭と日本の関係について説明している。『(新唐書)』東夷伝も似た記事を載せるが、日本伝のみを立て、倭国が日本国を併合して国号を奪ったとする異伝を記す点が大きく相違する。
遣唐使はその後もしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号としたのかは明らかでない。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の(書物)であり、原資料にあった可能性のある「倭」という国号の多くを「日本」と改めている。対照的に『(古事記)』には「日本」という文字は全く現れない。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に(太宰府)へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『(続日本紀)』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』『新唐書』の記事も、この日本側の説明に基づいているようである。なお『(万葉集)』の歌謡では(692年)、(持統天皇)が(伊勢国)の(神郡)に行幸したときに随行した(石上麻呂)の歌(44番)が「日本」の初出であり、この「日本」は(大和国)(現在の(奈良県))の意味で使われている。
詳細
『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は
(唐)のが(開元)24年((736年))に記した『(史記正義)』虞舜篇には「武后改倭國爲日本國((武后)が倭国を改めて日本国と為す)」、夏禹篇には「倭國武皇后改曰日本國(倭国は武皇后が改めて日本国と曰う)」とある。(北宋)の(王溥)が(建隆)2年((961年))に記した『(唐会要)』には「(咸亨)元年三月、遣使賀平髙麗、爾後繼来朝貢則天時、自言其國近日所出、故號日本國(咸亨元年((670年))三月、使を遣わし、高麗を平ぐるを賀し、爾後継いで来たりて朝貢す。則天の時、自ら言う「其の国、日の出づる所に近し、故に日本国と号す」と)」とある。(北宋)の(宋祁)が(嘉祐)5年((1060年))に記した『(新唐書)』には「天智死、子天武立。死、子總持立。咸亨元年、遣使賀平髙麗、後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。使者自言、国近日所出、以爲名(天智死し、子の天武立つ。死し、子の總持立つ。咸亨元年、使を遣わし髙麗を平ぐるを賀す、後ち稍く夏音を習い、倭の名を悪み、更めて日夲と号く。使者自ら言う、国、日の出づる所に近く、以て名と為すと)」とあり、名前や系譜の誤りはあるが(持統天皇)が国号を変更したとする。『史記正義』は唐代に成立した書物、『唐会要』は唐代に編纂されたものが北宋期に完成した書物、『新唐書』は唐代に成立した史料を元に成立した書物であることから、信憑性は高いと考えられる。武則天が改名したとする『史記正義』の記事は事実には反するが、中華思想の立場からの表現と考えられる。
『(三国史記)』の(新羅)本紀では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされているが、(井上秀雄)と(吉田孝)は、これは上記の『新唐書』を誤って引用したものとする。新羅本紀には「(698年)、日本国から使者が来た」という記事もあるが、『(続日本紀)』にはこれに対応する記事は無い。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から(8世紀)初頭までの間と考えられる。このころの東アジアは、(618年)に成立した(唐)が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。(斉明天皇)は658年臣の(阿倍比羅夫)に、外国である(粛慎)(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には(天智天皇)が日本で最初の律令である近江朝廷之令((近江令))を制定した。そして672年の(壬申の乱)を経て強い権力を握った(天武天皇)は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の(飛鳥浄御原令)から701年((大宝)元年)の(大宝律令)の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、天智天皇の時代((670年))説を除いた見解は以下の2説に絞られる。
- 天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。
- (701年)(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。ただし、『日本書紀』の(大化)元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年((養老)4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐((武則天)、(大周))へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えた」とか「倭が小国だった日本を併合し国号を奪った」と説明したとする説を記している。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、(開元)22年(734年、日本:(天平)6年)銘の(井真成)墓誌である。但し2011年7月、(祢軍)という名の(百済)人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる。
『(旧唐書)』・『(新唐書)』などを理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある。(平安時代)初期に成立した『(弘仁私記)』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり(東方)に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『(日本書紀私記)』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。
『隋書』東夷伝に、倭王が(隋)皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある。
歴史
(日本の歴史) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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この節はなが全く示されていないか、不十分です。(2021年2月) |
通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている。
(人類の歴史)よりも(日本列島)の(歴史)の方が数千万年以上長く、日本列島には長らく(ヒト)が住んでいなかった。日本列島の形成が始まったのは、(哺乳類)が現れた(始新世)(5600万年前 - 3400万年前)と推測されている。そして、アフリカに(ヒト)が現れた時代は(始新世)よりも遥か後の(更新世)末期(約25万年前)である。
(時代の区分)は、(考古学)上のものと(歴史学)上のものとがある。
(1)考古学上は、(旧石器時代)(先土器時代)、(縄文時代)、(弥生時代)、歴史時代、とするのが一般的である。
一方、(2)歴史学上は、(古代)((古墳時代)から・(飛鳥時代)・(奈良時代)・平安時代)、(中世)((鎌倉時代)・(室町時代)・(戦国時代))、(近世)((安土桃山時代)・江戸時代)、(近代)((明治維新)から1945年8月14日まで)および(現代)(1945年8月15日以降)の五分法が通説である。
建国をめぐる議論
公的には1966年に成立した建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として(建国記念の日)(旧(紀元節))が定められた。(記紀)による初代神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)をグレゴリオ暦に換算((紀元前660年)2月11日)による。(紀元前663年)、(奈良盆地)とその周辺を支配していた(長髄彦)を(神武天皇)が打ち破り((神武東征))、(神武天皇)が(奈良盆地)とその周辺を統治することになったとされる。
ただし、国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成され、(神話)か(現実)か区別が難しい記録が多いため、建国時期の確実な(根拠)となる(記録)は存在しない。
この神武天皇即位紀元をもとに1957年ごろから「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった背景がある。
そのため建国記念の日も「日本が建国された日付」を法律上定義するものではない。
神武天皇は実在しなかった(架空)の人物である可能性があるが、『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が(辛酉)年春(正月)(庚辰)(朔)(1月1日)に即位したとの記述があり、明治時代以前の日本では、これが日本建国の画期と広く考えられていた。そのため明治5年(11月15日)(1872年12月15日)には、(神武天皇即位紀元)が(西暦)紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする(紀年法)・「(皇紀)」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用されていた。
他にも建国の時期として、「日本」という国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった(国際法上の(国家主権)の存在が明確化された)明治維新の時期とする学説もあるなど、日本の建国時期を明確に定義づける証拠はない。
日本の黎明期
日本列島における人類の歴史は、人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで、西方の(華北)や北方の(シベリア)との文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に(最終氷期)が終わると6千年前ごろまで100m以上の海進が進んだ((縄文海進))。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。
(紀元前8世紀)ごろ以降、中国南部から(稲作)を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、(勾玉)などが(紀元前6世紀)以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀ごろに青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。(1世紀)・(2世紀)前後に倭の代表の座を巡って各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権((ヤマト王権))が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。王権の(首長)((王))はのちに(大王)(おおきみ)と呼ばれ、(豪族)(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。
律令国家の成立と貴族政治の展開
朝鮮半島における覇権争いが(倭国)の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である(百済)や(新羅)に対して、度重なる出兵を行い(任那)に日本領を築くなど、(朝鮮半島)に影響力を持っていたが、(663年)、百済復興のために援軍を送った(白村江の戦い)で新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「(天皇)」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする(冊封体制)からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家((律令国家))としての完成を見た。また『(隋書)』では、日本列島での古墳時代後期にあたる(610年)に(隋)が「流求国」に遠征して滅亡させたとされており、従来の研究ではこれが琉球諸島に存在していたことが定説となっていたが、その位置を巡っては意見が分かれている。
日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に(中華)王朝に対して独自の「(天子)」を称し、8世紀には(渤海を朝貢国とした)。後述する(武家政権)成立後も、(13世紀)の(元寇)、(16世紀)のヨーロッパのアジア進出、(19世紀)の(欧米列強)の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持していくこととなる。
成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた((隼人))が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に((延久蝦夷合戦))領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8、9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に、関係が悪化した(新羅への遠征も計画される)など、帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。
(9世紀)から(10世紀)にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を(押領使)や(追捕使)に任じて、各地に派遣したが、中には(在庁官人)となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが(武士)の起こりである。武士は(家子)や(郎党)を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である(武士団)へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く(桓武平氏)と(清和源氏)は、軍事貴族である(武家)となって武士を二分する勢力に成長し、政権を巡って両者は相争った。
中央政治においては(11世紀)に(藤原北家)が皇族の外戚として政権中枢を担う(摂関政治)が成立した。(白河上皇)が(治天の君)として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くに(譲位)し、(太上天皇)(上皇)となって政を取り仕切る(院政)がしばしば見られるようになった。
文化面においては、7世紀から9世紀にかけて唐を中心とする大陸文化の摂取に努めたが、10世紀ごろから12世紀にかけては日本独特の文化が創造されるようになり、(国風文化)が花開いた。
武家政権の時代
10世紀から(12世紀)にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制へと移行した。更に(治承・寿永の乱)で(平氏政権)を破った(清和源氏)や(北条氏)が実権を掌握する(鎌倉幕府)が王朝貴族勢力と拮抗しながら国内の統治を行い、「(一所懸命)」「(御恩と奉公)」の言葉に象徴される封建的なシステムが確立した((荘園公領制)、(職の体系))。
12世紀ごろ(平安末期)から(起請文)などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め「日本」「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。また、このころに今日につながる(日本の仏教)の諸宗派が発達した。
元寇
13世紀後半の(元)の(日本侵攻)は、「日本」「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「(神国)」観念を定着させた。(網野善彦)は、このような「日本」「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている。
日本は元の侵攻を退けたが領地の獲得はなく、御家人に恩賞を与えることが出来なかった為(御恩と奉公)は崩れた。そのため元寇は鎌倉幕府滅亡につながった。
(1333年)に鎌倉幕府を滅亡させた(後醍醐天皇)は古代の天皇親政に回帰する(建武の新政)を行ったが、ほどなく失敗し、(1336年)に成立した(足利氏)の(室町幕府)がその後の(南北朝時代)の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。
この室町時代までには、(安東氏)の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ((道南十二館))。また、15世紀には(足利義満)による(日明貿易)が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の(明朝)から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。
戦国時代・近世の到来
(14世紀)から(15世紀)までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展し、守護領国制が形成されたが、(応仁の乱)による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半ごろから(戦国大名)勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に(織田信長)の遺志を引き継ぎ日本の統一政権を樹立した(豊臣秀吉)は(太閤検地)を実施し近世封建社会の基礎を確立した。戦国大名の最後の覇者となった(徳川家康)は(1603年)に(江戸幕府)を開き、約260年間にわたる「天下泰平の世」が続いた。(幕藩体制)の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した(国学)は日本の伝統宗教である(神道)を思想的に発展させ、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。
日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に(蠣崎氏)が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む(蝦夷地)の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、(17世紀)に(シャクシャインの戦い)や(ロシア帝国)の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて(鬼界島)・(硫黄島)までが西の境界と意識された。17世紀初めに(薩摩藩)の(島津氏)は(琉球王国)に侵攻して、かつて(北条氏)の(得宗)領であり、(鎌倉幕府)滅亡後島津氏の支配下に入った(千竈氏)の采配地であった(奄美群島)を直轄地とし、(沖縄諸島)および(先島諸島)((宮古列島)および(八重山列島))の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させたが、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に(清朝))両属の状態に置かれた。
海外との交流の面においては、(ポルトガル)船の来航以来(16世紀)には(南蛮貿易)が盛んになり、(織田信長)は特にこれらを保護し文化的な交流も極めて豊かな状態になった一方、豊臣秀吉は(伴天連追放令)を発し、秀吉が(李氏朝鮮)に侵攻した(文禄・慶長の役)の失敗後、(1603年)に(徳川家康)が開いた(江戸幕府)は薩摩を通じた(琉球侵攻)以外は対外政策は徐々に消極的になり、貿易も「(鎖国)」とも称される貿易体制によって外国文物の流入が制限されるようになったものの、(清)との貿易や(出島)での(オランダ)との交易を通じ文化・情報の流入は途絶える事はなかった。18世紀末以降、江戸幕府は(千島列島)などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。
明治維新と近代日本の展開
(江戸幕府)は(日米和親条約)を皮切りに(開国)を行い、それまでの対外政策を変更した。(幕末)期には人口増加も見られたが、(尊王攘夷)運動を経た(明治維新)で、(明治政府)は(幕藩体制)を崩壊させ(中央集権化)を進めた。近隣国と国境の確定を行い、(1875年)に(樺太)全域をロシア領とする代わりに(占守島)以南の(千島列島)全域を日本領とし((樺太・千島交換条約))、(1876年)に小笠原諸島の領有を宣言し、また、を行うとともに(1885年)に(大東諸島)、(1895年)に(尖閣諸島)を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。明治政府の対外政策の中心課題に(不平等条約)の(撤廃)があった。
(自由民権運動)を受けて(1889年)に発布された(大日本帝国憲法)により、アジアで初めて(憲法)と(議会)とを持つ、近代的な「(立憲国家)」となった。帝国憲法下では部分的な権利が保障されたが、(1925年)の(普通選挙法)で(男子普通選挙)制度が成立した。
大日本帝国
諸外国との戦争に次々と勝利する日本
(日清戦争)に勝利した日本は(乙未戦争)後に(台湾割譲)、(日露戦争)によって(ロシア帝国)に勝利した日本は、(朝鮮総督府)設立後には(韓国併合)で領土を拡大させると、(シベリア出兵)の失敗を経たのち、(関東軍)は日本が権益を持つ(満洲)(中国東北部)への侵略を強め、(1934年)に(満洲国)を建国して一定の支配権を得るに至り、その後(対支一撃論)を主張する。
第一次世界大戦に勝利
日清戦争、日露戦争、(義和団の乱)と外国との戦争で連続的に勝利してきた日本は当初、1914年にヨーロッパで始まった(第一次世界大戦)に直接国益に関与しないにもかかわらず(日英同盟)を根拠に(連合国)側として参戦した。日本は(中央同盟国)の(ドイツ帝国)と(オーストリア=ハンガリー帝国)に宣戦布告、(日独戦争)に突入した。欧州諸国とは違い日本本土は第一次世界大戦中、被害を受けなかったため、日本はアフリカやアジアに輸出が増加、国内は(大戦景気)と呼ばれる好景気が5年以上と続いた。
ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国に次々と勝利していった日本は植民地だった中華民国の一部の都市を占領した。大戦の結果、日本などの連合国は勝利した。
戦後の日本は戦勝国になったことから欧州の列強国とともに数少ない(国際連盟)の(常任理事国)に加盟するなど国際社会の大国として君臨していった。また、ドイツ領ニューギニアの一部が(南洋諸島)として委任統治が任された。
第二次世界大戦に敗北
(日中戦争)に引き続き(1941年)に(真珠湾攻撃)で(太平洋戦争)が開戦し、既に(ヨーロッパ)では(ナチス・ドイツ)が侵攻を開始していたものの、アメリカ合衆国が参戦した事でここに(第二次世界大戦)は全世界に拡大した。真珠湾攻撃の奇襲に成功しながらドックや補給タンクを放置したことがミッドウエイ海戦での米軍の戦力回復を助けたことなど、自国側の(兵站)計画だけでなく、敵対国の兵站を断つことへの認識の甘さを指摘する説もある。
敗戦により日本は朝鮮・台湾・樺太・千島列島を放棄した。
戦後復興
占領から主権回復期
(1945年)(8月15日)、(玉音放送)で(昭和天皇)は臣民に(ポツダム宣言)を受諾する事を広報し、同年9月2日(降伏文書)に日本と(連合国)が署名したことで太平洋戦争は終結し、日本は(GHQ)の監督下に置かれることになった。初の(男女普通選挙)だった(第22回衆議院議員総選挙)で選ばれた衆議院での改正手続きを経た(日本国憲法)が、(1946年)11月3日に公布され、(大日本帝国憲法)が全文改正された形式をとるものの(国民主権)になり主権者規定が変更された。人材面では(公職追放)・(レッドパージ)が行われた。占領当局は政策を進めるにあたり(プレスコード)を布いた。当初憲法に従い軍隊に準ずる組織はなかったものの(1950年)には(警察予備隊)が設置された。
(1951年)(9月)に(サンフランシスコ平和条約)が調印され、日本の主権回復が決められるとともに、日本はここで(朝鮮)の独立を承認し、(済州島)・(巨文島)・(鬱陵島)を含む朝鮮地域の放棄が規定された。同時に(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)(旧日米安保条約)が調印され、主権回復後も引き続き在日米軍の駐留が続けられることとなった。(1952年)主権回復。(1956年)、(日ソ共同宣言)調印後、(国際連合)に(加盟)した。
経済の面においては、終戦直後の日本の状況は苛烈を極めたものの、(朝鮮戦争)の勃発に伴う(朝鮮特需)もあって経済復興をとげ、1956年の『(経済白書)』で「もはや戦後ではない」と記述される状況に至った。
主権回復後
(神武景気)から本格的な経済成長に入った日本は、60年代にはに突入した。オイルショックまで高度成長は続き、成長と所得の平等((一億総中流))を達成したその様は、経済学者の(ラビ・バトラ)が「資本主義の究極の理想に近い」と表現するほどであった。
対外的には(1953年)の(竹島紛争)などを除き概ね直接紛争は避けられた。(安保闘争)も起きたものの、(1960年)には新たな(日米安全保障条約)が締結された。この「安保改定」は、現在も有効であり日本の(国家安全保障)の根幹をなしているが、基地問題やアメリカ合衆国の世界戦略への協力の是非などをめぐりしばしば議論の的となっている。
朝鮮に関しては、(1965年)の(日韓基本条約)で(韓国)と国交を正常化し、東アジアでの地位を固めた。「(二つの中国)」問題については、中華民国とのみ国交を結ぶ「サンフランシスコ体制」をとり、(国共内戦)を経て中国本土を実質支配していた中華人民共和国とは国交がない期間が続いたが、1972年に(中華人民共和国との間に国交を結んだ)。引き換えに中華民国とは断交し、以来現在に至るまで国家間での公式な交流は行われていない。
1980年代には(バブル景気)が発生し戦後最大の好景気となった。1993年の細川政権発足まで一貫して自由民主党が(与党)であった、これは55年体制と呼ばれる。
バブル崩壊後日本経済は低迷、失われた30年と呼ばれる。この間に日本人技術者を台湾や韓国の企業が雇い技術力を高めた。90年代より中国などアジア新興国が工業化を行い、輸出により経済を回していた日本は徐々に競争力を失った。(京都大学)の研究チームによる将来予測では、(2008年)を過ぎたころからの急速な人口減少,財政における持続可能性,格差と子ども・若者をめぐる持続可能性,コミュニティーないし「つながり」に関する持続可能性の観点で、日本社会の持続可能性が相当に危うい状態になっていることが指摘されている。
1995年1月17日には(阪神・淡路大震災)が発生。関西は深刻な被害を受けた。同年3月20日に(東京都)で(オウム真理教)による(地下鉄サリン事件)が発生し、(カルト)の危険性が浮き彫りとなった(当時、平時の大都市において無差別に(化学兵器)が使用される事件は世界でも稀であった)。1995年は日本社会を揺るがす出来事が立て続けに起きた年となった。
1996年に発足した橋本内閣は景気回復より増税による財政再建を急いだため回復の兆しを見せていた景気の再びの悪化を招いた。このころより日本は(デフレーション)に突入する。90年代より売上高が頭打ちになった日本企業は正社員を非正規社員の労働に置き換える、新入社員の給与を抑制するなど、一方的なコストカットに活路を見出すようになった。このような企業の行動は消費の縮小を発生させ日本経済全体を縮小させることとなった。(ゴールドマン・サックス)で日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせた(デービッド・アトキンソン)により、現代日本は強大になり過ぎた企業が労働者を安く買い叩くmonopsony(モノプソニー)と呼ばれる状況に陥って、生産性の低下や財政の弱体化が起きている可能性が指摘されている。
1999年に(能登半島沖不審船事件)が発生。朝鮮民主主義人民共和国の不審船が日本の排他的経済水域内に侵入し、初めて(海上警備行動)が発動し、(海上自衛隊)が対処にあたった。北朝鮮とは(拉致問題)や(1993年以降続く弾道ミサイルの発射実験)などの問題を抱え、緊張状態が続いている。
21世紀
2001年から(聖域なき構造改革)が行われ景気悪化は底を打ったが、非正規労働の規制緩和という実質賃金抑制策によって労働者の地位低下を招いたとの批判がある。2013年には前年発足した(第2次安倍内閣)が円高・デフレ不況からの脱却を目指す(アベノミクス)と呼ばれる経済政策を打ち立て、経済の立て直しを図った。
(2008年)には(日本の人口)が頂点に達し、以降は急速な人口減少に転じた。人口減少は(出生率)の低下が主な原因であり、(国立社会保障・人口問題研究所)の予測によれば(日本の人口)が半減する(2110年)であっても人口減少が止まらない見通しである。更に長期の予測として、(河合雅司)の『未来の年表 業界大変化 瀬戸際の日本で起きること』では、低い(出生率)が継続した場合(3000年)には(日本の人口)が僅か2000人になることが予測されており、負の連鎖による縮小再生産も考慮すると早急に手を打たなければ日本人が絶滅の危機にあるという指摘までなされている。
2011年には(東北地方太平洋沖地震)が発生。(三陸沖)の(太平洋)を震源とする(マグニチュード)9.0の(超巨大地震)が発生し、(津波)や(福島第一原子力発電所事故)などを誘発した。それらの災害は総称して(東日本大震災)と呼ばれ、それによる死者は2022年時点で1.9万人に達し、戦後最悪の自然災害とされる。
2019年、天皇明仁は(皇太子)(徳仁)に(譲位を行い)元号が(令和)となった。改元を以って明仁は(上皇)となった。
2020年、国内で初の新型コロナウイルス感染者が発表された。
2021年、第49回衆議院議員総選挙では自由民主党が衆議院の過半数の議席を獲得した。(第26回参議院議員通常選挙)では自由民主党が参議院の第1党の地位を維持した。
2023年8月24日13時ごろ、(2011年)に(原子力事故)を起こした(福島第一原子力発電所)で(トリチウム)などの(放射性物質)を含む処理水の放出が開始された。放出期間は30年程度に及ぶ見通しである。
2024年1月1日16時10分、(能登半島地震)が発生。(人口減少社会)に合わせた過疎地域の限定的な復興の必要性についての意見が挙がる。
2025年、(大阪府)の(夢洲)で(2025年日本国際博覧会)(略称:大阪・関西万博)が開催される予定である。しかし、海外パビリオンの建設が大幅に遅れ、開催が危ぶまれる事態となっている。
2025年以降は、(少子高齢化)と人口減少に伴い発生する問題がかつて無いほどに深刻化し、(国民)においてはより(自助)が求められる(国家)に変わることは確実となっている。
新型コロナウイルスの流行
2020年1月16日、(神奈川県)で国内第1例目の(武漢市)への旅行歴のある(新型コロナウイルス)の(感染)者が発表された後、(パンデミック)と呼ばれる状況に陥り、政治、経済、国民生活に大きな影響を与えている。(パンデミックの影響)による1年延期ののち、(2020年東京オリンピック・パラリンピック)が2021年に開催された。
2023年5月8日には(新型コロナウイルス)の(感染症法)上の位置付けが(季節性インフルエンザ)と同等の5類感染症に変更されたことにより、日本社会は(新型コロナウイルス)と共存する社会に移行した。
2025年問題
2025年は日本国全体の人口構成という観点では「2025年問題」、産業界のデジタルトランスフォーメーション(DX)という観点では「2025年の崖」というより厳しい局面を迎える年でもある。
2030年問題
(2030年)には日本経済を駆動する物流において、トラックドライバーの不足により全体の3割以上の荷物がトラックで配送できなくなる「物流危機」が生じるため、日本経済が致命傷を受ける可能性がある。
地理
日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは(比較法学)の観点では特殊なものであった。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ平和条約)が主要な(法規範)を形成している。
地勢
日本の領土は、14,125の(島)からなる。
(アジア)・東アジアの中でも東方にあり、(ユーラシア)の東端近くにあたるため、(東洋)や(極東)などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、(島弧)をなす日本列島である。これは本州・(北海道)・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島((沖縄本島)など)も有する。日本はまた北東に位置する(北方四島)の領有権をも主張している。
領土(面積)は約37.8万(平方キロメートル)(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。
(埋立地)は古くから造成されてきたが、その多くは(港湾)を形成整備することが目的であった。これによる(埋立地)が(ポートアイランド)、(六甲アイランド)、(神戸空港)などである。最近では(関西国際空港)、(横浜)(八景島)や(和歌山マリーナシティ)などがあり、総(面積)は国土の約0.5%に相当する。また、(諫早湾干拓事業)と(八郎潟)のような大規模事業のような例もある。
離島が多数存在し、その中には様々な理由で(多くは私有地や重要な施設があるため)立入禁止の島もある。(琉球諸島)や(伊豆諸島)は離島の内でも交通の便が良く、南方の島々は亜熱帯気候あるいは熱帯雨林気候となっているため「日本のハワイ」などと称され、日本人観光客に人気である。
- 最東端
- 東京都(小笠原村) (南鳥島) (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
- 最西端
- 沖縄県(八重山郡)(与那国町) (トゥイシ)(北緯24度27分05秒・東経122度55分57秒)
- 日本最西端は長らく(与那国島)の(西崎)(いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった。
- 最南端
- 東京都小笠原村 (沖ノ鳥島) (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
- 最北端
- 北海道(稚内市) (弁天島) (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の(実効支配)下にある領域の最北端)
- 北海道(蘂取郡)(蘂取村) (択捉島)(カモイワッカ岬) (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端)
周囲を(太平洋)、(日本海)、(東シナ海)、(フィリピン海)、(オホーツク海)などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は(瀬戸内海)と呼ばれる。陸上の(国境)線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、(フィリピン)、アメリカと(排他的経済水域)が接している。また、南方に(パラオ)共和国、小笠原諸島の延長線上に(ミクロネシア連邦)があり、太平洋を挟んで(アメリカ大陸)がある。沖合を(暖流)の(日本海流)(黒潮)、(対馬海流)、(寒流)の(千島海流)(親潮)、(リマン海流)が流れる。
(領土問題)のある地域が数箇所存在する。
- (北方地域)
- (竹島)
- (尖閣諸島)
自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する(糸魚川静岡構造線)を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、(ユーラシアプレート)、(フィリピン海プレート)、(太平洋プレート)、(北アメリカプレート)がせめぎ合い、(環太平洋造山帯)・(環太平洋火山帯)・(環太平洋地震帯)と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される(地震)エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、(火山活動)が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。(温泉)が多いことも(火山)の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの(破局噴火)が起きていたことが分かっている。
山岳は、最高峰は(富士山)(標高3776メートル)の他、(南アルプス)、(北アルプス)など、2500メートル超えの山が本州中央に集中している。他、(大雪山)、(磐梯山)、(阿蘇山)などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。
河川は、(利根川)・(最上川)などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、(海抜)高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。(集中豪雨)が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。
周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・(漁業)ともに盛んな(海洋国家)である。(内海)を含む(領海)を入れた領域の面積は約43万平方キロメートルである。
日本政府が主張する(日本の排他的経済水域)((EEZ))は領土面積の約12倍である約405万平方キロメートル、領海とEEZを合計すると約447万平方キロメートルであり世界では第6位となる。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。
EEZとは別に(国連海洋法条約)において排他的な海底資源権益が与えられる法的な(大陸棚)については、2012年4月に国連(大陸棚限界委員会)が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した。
国土の変遷
古代
(弥生時代)後期、西日本の各地に広域の地域勢力が勃興した。2世紀末には(畿内)を中心として、西日本広域を支配する(邪馬台国)連合が創設された。邪馬台国連合は3世紀には東海・北陸のほか東日本も支配下に置き倭国が成立した。(古墳時代)前期前半には、現在の九州の(宮崎県)から(東北)の(宮城県)の範囲まで国土が拡大されたことが、古墳造営の消長から明らかになっている。荒井秀規は、3世紀末から4世紀に倭王権による東国への最初の接触があった後、4世紀末から5世紀にかけて倭王権による東国への征服戦争が行われたと想定している 。ただし倭国は東北など各支配領域を確保・維持しようとする考えを持っておらず、6世紀には、経済基盤が脆弱な(阿武隈川)以北を倭国の支配地から切り離し古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部、日本海側では現在の(新潟県)中部までが倭国の支配領域となった。またこの間、400年(履中天皇元年)と404年(履中天皇5年)に倭は朝鮮半島で百済・加耶諸国と共に高句麗・百済連合軍と2度にわたって合戦を行っている。
(奈良)・(平安時代)の日本国は、北は(津軽海峡)まで、南は(喜界島)までを国土と認識していたが、一方で(九州)・(四国)・(壱岐島)・(対馬)とそれらに取り囲まれた(本州)の(北陸)と(中部地方)西部までの範囲こそが日本国本来の領土とも認識していた。そのため東北地方に対しての関心の希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性は感じておらず、実際には(大崎平野)までが8世紀における日本国の北限であった。9世紀、陸奥・出羽からの徴税の京進が行われなくなると関心は更に希薄になり、東北北部の経営は現地の官人任せになっていった。また、(南西諸島)への関心も薄れていった。
古代の日本では、(畿内)と言われる行政区が設けられていた。(大化の改新)によって設置された当時から畿内は支配者にとっての特別な地域と認識されていたが、律令制施行後は直轄地として国家を支える役割を担った。
中世
中世後期の日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍を頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界が引かれていた。将軍に反逆し命令の届かない地域は支配権の外に置かれ、<主‐従の関係>の有無によって境界が明瞭化された。
歴史学において室町幕府3代将軍・足利義満の治世は初の公武統一政権と評価されている。しかし室町幕府は地方への関心を殆ど持たない政治権力であり、自らが統治すべき範囲は畿内近国・瀬戸内・中部地域と考えており、幕府にとって東北・関東・九州は辺境でしかなかった。
15世紀前半、(永享の乱)によって将軍と鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、幕府は日本国の東側の境界は駿河国までであると規定するようになり、東国を日本国から切り離した。一方で当時は独立国だった(琉球国)は室町将軍との間に<主‐従の関係>を結んでおり、将軍による<主‐従の関係>は国家間においても成立しうる概念でもあった。
1419年(応永26年)、(李氏朝鮮)は(倭寇)の拠点壊滅を目的に(対馬)を攻撃したが作戦は失敗に終わった((応永の外寇))。その後、対馬を李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉は不調に終わり対馬は引き続き日本国に所属することになった。
(文明)年間、大和(興福寺)・別当の(尋尊)は「(大乗院寺社雑事記)」で、中世後期の日本国の範囲は現在の近畿・東海・北陸・中国・四国の各地域であるとしている。一方、戦国時代末期の天正9年(1581年)、(織田信長)は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)が合戦し西国を討ち果たせば本朝(日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国の範囲を規定している。
近世
(織田政権)を継承した(豊臣政権)は、(四国平定)・(九州平定)を経て1588年(天正16年)日本国の統一を成し遂げた。豊臣政権はその後東日本にも支配を拡大し、1590年(天正18年)の(奥羽仕置)により初めて本州北端までを日本の国土に組み込んだ。更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島に2度に亘って攻め込むが、中国大陸・朝鮮半島へ支配を拡げるには至らなかった((文禄・慶長の役))。
豊臣政権を継承した(徳川幕府)は、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び、長崎・対馬・琉球(薩摩)・松前の4地域を窓口として対外交渉を行った。
1609年(慶長14年)、(薩摩藩)が琉球に侵攻し冊封関係を築き支配下に置いたが、琉球は中国とも朝貢関係を持ち続け、日本国と中国((明)・(清))との間で両属的な関係を維持した。また、徳川政権期、蝦夷地(北海道)は松前藩が支配する渡島半島の南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた。
近代以降
辺境地域の領土確定を課題としていた明治新政府は1870年(明治3年)、北海道を日本国に組み込み、1879年(明治12年)には(清)との帰属交渉が未決のまま、琉球を(沖縄県)として公式に日本国に編入した。
19世紀末以降、日本国は対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模に拡大した。1895年(明治28年)に(日清戦争)の結果、清から台湾を獲得((下関条約))し、1905年(明治38年)には、(日露戦争)後の交渉で、ロシアより南樺太の割譲を受けた((ポーツマス条約))。更に1910年(明治43年)にはそれ以前より日本国の保護下にあった朝鮮を併合した。その後、1922年(大正11年)には(南洋諸島)の委任統治も開始し、太平洋側へも支配地域を拡大させた。
1932年(昭和7年)には(満州国)を建国し。1937年(昭和12年)、(盧溝橋事件)をきっかけに開戦した(日中戦争)により中国大陸に占領地を拡大。1940年(昭和15年)9月、フランス領インドシナ北部へ進駐を開始し((仏印進駐))、翌年7月には南部仏印進駐、翌年7月には南部にも進駐を開始した。
1939年(昭和14年)2月、(台湾総督府)は海軍と共に(海南島)を占領した。台湾総督府は台湾の重工業化を企図し、「台湾の植民地」として海南島を支配下に置くことを目論んだものだった。だが占領後の海南島支配は海軍が主導することになり、台湾総督府は海軍に協力することでしか関与できなかった。
1941年(昭和16年)12月、日本は太平洋戦争の開戦と共に(南方作戦)を発動し、翌年5月には東南アジア一帯を国土に組み込んだ。しかし太平洋戦争に敗れると、日本はそれ以前からの各植民地を失い満州国も消滅。1951年(昭和26年)に締結された(サンフランシスコ条約)により南樺太、千島列島の領有権も放棄することになった。
1972年(昭和47年)には、太平洋戦争末期からアメリカの占領状態にあった沖縄が日本に返還され現在に至っている((沖縄返還))。
気候・動植物
- (気候)
- (ケッペンの気候区分)によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が(温帯多雨夏高温気候)(Cfa)、(宮古諸島)・(八重山列島)・(沖大東島)などは(熱帯雨林気候)(Af)、(南鳥島)は(サバナ気候)(Aw)に属する一方、北海道などが(亜寒帯湿潤夏冷涼気候)(Dfb)を示す。内陸部にも標高が高いために寒冷な気候となる地区があり、(避暑地)として利用されている。(モンスーン)の影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には(海洋性気候)のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。(飛び地)や(海外領土)などを別にすれば、一国の領土内に(熱帯)から(亜寒帯)までを含む国家は珍しい。(北半球)では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く)
- 冬季は、(シベリア高気圧)が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の(対馬海流)から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。併せて、(日本海)側で起きる(冬季雷)は(世界)でも稀な(自然現象)である。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。
- 夏季は、(太平洋高気圧)の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心に(オホーツク海高気圧)の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。
- 比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6、7月(沖縄・(奄美地方)は5、6月)に(前線)が停滞して起こる(梅雨)、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する(台風)など。また、(地球温暖化)に伴い、元からある季節性の大雨以外にも、(春)から(秋)にかけて不規則に(線状降水帯)が現れ、極端に強い(集中豪雨)が(西日本)を中心に多発するようになった。年間(降水量)は、約1700ミリメートルで地域差が大きい。(南鳥島)を除く日本全域が(モンスーン)地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを(暖流)が流れている為に雲が発達しやすく、(日照時間)は約1800時間程度と(世界)の他の(温帯)地域と比べても少なめである。
- (生態系)
- 南北に長く、また、(森林限界)を越える(高山帯)や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する(動物)や(植物)の種類が豊富である。(津軽海峡)以北の北海道の生態系は(沿海州)の生態系に似ており、(ブラキストン線)という境界が提唱されている。(屋久島)と南西諸島の間には、(旧北区)と(東洋区)の生態系の(分布境界線)である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。
- 四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋の(ガラパゴス)」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島の(イリオモテヤマネコ)、(奄美大島)・(徳之島)の(アマミノクロウサギ)をはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ(外来生物)により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。
- 植物・(森林)
- (熱帯)のものから(亜寒帯)のもの、さらには高山(ツンドラ)に生育する(高山植物)に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。(コケ植物)や(シダ植物)などが特に豊富。大陸から離れた地形から、(スギ)などの日本固有種が広く分布する。慣習的に(桜)と(菊)が(国花)と同等の扱いを受ける。この他、各(自治体)でも独自の木や花を制定している。
- 陸地の約3分の2が森林((森林率)66%・森林面積:2,512万(ヘクタール)・2009年現在)である。(亜熱帯)から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の(植生)は、南の約3分の2が(常緑広葉樹林)、いわゆる(照葉樹林)という型であり、北の約3分の1が(落葉広葉樹林)、(ブナ林)を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に(常緑針葉樹林)、一部に(落葉針葉樹林)がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟には(マングローブ)が発達する。
- この森林面積の内訳は、(天然林)が53%(1335万ヘクタール)、(人工林)が41%(1036万ヘクタール)、その他((標高)などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の(拡大造林)の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ヘクタール)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・(ヒノキ)林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれる(花粉症)の蔓延を招いている。
- 春の(桜)((福島県)(三春町) (三春滝桜))
- (与那覇前浜)(沖縄県(宮古島市))
- 秋の紅葉((京都府)(京都市) (嵐山)・(宝厳院))
- 冬の樹氷((蔵王連峰)、(宮城県))
- 動物
- (哺乳類)
- 詳細は「(日本の哺乳類一覧)」を参照
- 100種強が生息し、その内、(固有種)が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島との間にある(渡瀬線)で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。
- 大型哺乳類では、北海道の(ヒグマ)、(エゾシカ)、本州の(ツキノワグマ)、(ニホンジカ)、(ニホンカモシカ)などがいる。
- 固有種である(ニホンザル)のうち、(下北半島)に住む(個体群)は、世界で最も北方に棲息する(サル)である。(ニホンオオカミ)、(エゾオオカミ)、(ニホンアシカ)、日本の(ラッコ)個体群、および、(ニホンカワウソ)は絶滅。
- (鳥類)
- 詳細は「(日本の野鳥一覧)」を参照
- 500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む(水鳥)の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、(東南アジア)など南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る(渡り鳥)が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による(干潟)の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要なが、(ラムサール条約)に登録され保護されている。
- 渡りをしない留鳥としては、(国鳥)の(キジ)などがあげられる。人家の近くには、(カラス)、(スズメ)、(ハト)、(ツバメ)、(ハクセキレイ)などが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近では(ヒヨドリ)や(ムクドリ)が人家周辺に多い。
- 固有種は、(メグロ)などがある。(トキ)の個体群は、絶滅。現在、(佐渡市)で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
- (爬虫類)・(両生類)
- いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、(サンショウウオ)類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類である(オオサンショウウオ)は、日本を代表する両生類として世界的に知られる。
- (魚類)
- 詳細は「(日本の淡水魚一覧)」を参照
- 近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、(三陸海岸)沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境で(プランクトン)が発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な(海岸)を持つこと、などが好条件となっている。(淡水魚)の種は、大陸に比べて(河川)の規模が小さいため、多くない。(古代湖)である(琵琶湖)などに多彩な種が棲息するものの、(アユ)など食用に供される種の人為的な放流や(外来魚)の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に(汽水域)が出来やすく、(貝類)も豊富である。
- また、2010年に海洋生物センサス(Census of Marine Life)が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。
- (昆虫)
- 亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。(都市)部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特に(トンボ)の種類が多い。また、(カブトムシ)など(里山)に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代ごろから(スズムシ)や(コオロギ)の鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。(オオムラサキ)が国蝶。
環境問題
- 詳細は「(日本の環境と環境政策)」を参照
- 1950-60年代、(四大公害病)に代表される大規模な(公害)の発生から、1967年の(公害対策基本法)を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、(オイルショック)のためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は(公害対策)と経済成長を両立させた」と言われる。
- しかし、(日本列島改造論)が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの(公共事業)、(リゾート)開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山の(世界遺産)登録を断念したことに象徴されるように、(環境)管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃や(ダム)建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルや(イノシシ)が市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。
- (高度経済成長期)以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、(東京一極集中)、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、(耕作放棄地)の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。
地域区分
(都道府県)(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、(市町村)や、町村をまとめた(郡)、特別区などがある((日本の地方公共団体一覧)参照)。一部の(市)は、行政上、別途(政令指定都市)、(中核市)、(施行時特例市)に定められている。
- (北海道地方)
- 1.(北海道)
- (東北地方)
- 2.(青森県) - 3.(岩手県) - 4.(宮城県) - 5.(秋田県) - 6.(山形県) - 7.(福島県)
- (関東地方)
- 8.(茨城県) - 9.(栃木県) - 10.(群馬県) - 11.(埼玉県) - 12.(千葉県) - 13.(東京都) - 14.(神奈川県)
- 上記は「一都六県」。「(首都圏)」はこれに(山梨県)を、「(広域関東圏)」には関東地方1都6県に親不知浜名湖線以東の(新潟)・山梨・(長野)・(静岡)の4県を、それぞれ加える。
- (中部地方)
-
- (北陸地方)
- 15.新潟県 - 16.(富山県) - 17.(石川県) - 18.(福井県)
- 福井県(嶺南地域)を近畿地方に含める場合がある。
- 新潟県を北陸地方に含めず、長野県、山梨県とともに(甲信越)と称する場合も多い。
- (東山地方)
- 19.山梨県 - 20.長野県
- 中央高地ともいう。岐阜県(飛騨地域)を加える場合もある。
- (東海地方)
- 21.(岐阜県) - 22.静岡県 - 23.(愛知県)
- 普通、「(東海3県)」というと、静岡県ではなく(三重県)を含めることが多い。なお、静岡県については関東甲信越各県と併せて広域関東圏とする場合も多い。
- (近畿地方)
- 24.三重県 - 25.(滋賀県) - 26.京都府 - 27.大阪府 - 28.(兵庫県) - 29.奈良県 - 30.(和歌山県)
- 但し、三重県は近畿地方に含めず中部地方もしくは東海地方に含まれることも多い。なお、近畿地方のことを「(関西地方)」と呼ぶ場合は通常、三重県を除く2府4県のことを指す(場合によっては三重県のうち(伊賀地域)を加えることもある)。
- (中国地方)
- 31.(鳥取県) - 32.(島根県) - 33.(岡山県) - 34.(広島県) - 35.(山口県)
- 鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、(山陰)と呼ぶ。岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、(山陽)と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。また、山口県を(九州地方)と併せて九州・山口地方とする場合もある。
- 四国地方
- 36.(徳島県) - 37.(香川県) - 38.(愛媛県) - 39.(高知県)
- (四国山地)より北を(北四国)、南を(南四国)とする。また、中国地方とあわせて(中国・四国地方)(中四国地方)とする場合もある。その場合、山陽と北四国とをあわせて(瀬戸内)と呼ぶ。
- 九州地方
- 40.(福岡県) - 41.(佐賀県) - 42.(長崎県) - 43.(熊本県) - 44.(大分県) - 45.(宮崎県) - 46.(鹿児島県)
- 山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。
- 奄美群島は、歴史・文化・自然などの面において九州よりも沖縄に近いため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
- (沖縄地方)
- 47.沖縄県
- 沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。
- 沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近いため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
都市
順位 | 都道府県 | 市(区) | 法定人口 | 推計人口 | 増減率 (%) | 種別 | 推計人口の 統計年月日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
0 | (東京都) | (特別区部) | 9,733,276 | 9,821,798 | +0.91 | 特別区部 | 2024年4月1日 |
1 | (神奈川県) | (横浜市) | 3,777,491 | 3,764,961 | -0.33 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
2 | (大阪府) | (大阪市) | 2,752,412 | 2,773,544 | +0.77 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
3 | (愛知県) | (名古屋市) | 2,332,176 | 2,325,207 | -0.30 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
4 | (北海道) | (札幌市) | 1,973,395 | 1,953,600 | -1.00 | 政令指定都市 | 2024年3月31日 |
5 | (福岡県) | (福岡市) | 1,612,392 | 1,645,364 | +2.04 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
6 | (神奈川県) | (川崎市) | 1,538,262 | 1,545,048 | +0.44 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
7 | (兵庫県) | (神戸市) | 1,525,152 | 1,494,988 | -1.98 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
8 | (京都府) | (京都市) | 1,463,723 | 1,437,853 | -1.77 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
9 | (埼玉県) | (さいたま市) | 1,324,025 | 1,345,724 | +1.64 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
10 | (広島県) | (広島市) | 1,200,754 | 1,182,983 | -1.48 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
11 | (宮城県) | (仙台市) | 1,096,704 | 1,096,213 | -0.04 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
12 | (千葉県) | (千葉市) | 974,951 | 979,321 | +0.45 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
13 | (福岡県) | (北九州市) | 939,029 | 912,308 | -2.85 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
14 | (大阪府) | (堺市) | 826,161 | 809,484 | -2.02 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
15 | (静岡県) | (浜松市) | 790,718 | 776,750 | -1.77 | 政令指定都市 | 2024年4月1日 |
16 | (新潟県) | (新潟市) | 789,275 | 769,617 | -2.49 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
17 | (熊本県) | (熊本市) | 738,865 | 737,108 | -0.24 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
18 | (神奈川県) | (相模原市) | 725,493 | 723,785 | -0.24 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
19 | (岡山県) | (岡山市) | 724,691 | 714,069 | -1.47 | 政令指定都市 | 2024年3月1日 |
20 | (静岡県) | (静岡市) | 693,389 | 673,804 | -2.82 | 政令指定都市 | 2024年4月1日 |
特別区
区名 | 区旗 | 区章 | 推計人口 | 面積 | 人口密度 |
---|---|---|---|---|---|
(千代田区) | 68,494人 | 11.66km² | 5,874 | ||
(中央区) | 180,901人 | 10.21km² | 17,718 | ||
(港区) | 267,843人 | 20.36km² | 13,155 | ||
(新宿区) | 354,124人 | 18.22km² | 19,436 | ||
(文京区) | 246,082人 | 11.29km² | 21,796 | ||
(台東区) | 221,809人 | 10.11km² | 21,940 | ||
(墨田区) | 282,218人 | 13.77km² | 20,495 | ||
(江東区) | 537,118人 | 42.99km² |